2013年3月12日火曜日

震災から2年、日光を念う。


私は日光も被災地だと思っています。

もちろん、東北や茨城、千葉の沿岸部での被害に遭われた方々に比べたら…といえますが。

しかし、観光地としてお客様に来て頂けない、それこそ「未曾有」の状況は間違いなくあったわけです。震災と原発事故で受けた「産業の打撃」に他なりません。
でも、震災以降どうも声が上げ辛かった。
風評被害については為す術が無い。そんな諦めに似た空気がありました。
あの状況を決して忘れてはいけないのではないかと思うのです。

幸いにもお客様に戻って来て頂けた今、どうでしょう。薄れてませんか?

観光地としての姿をもう一度見直してみる良い機会ではないかと思います。
地域の安全・安心には、観光で訪れる方の安全・安心も当然含まれます。

「困ってるので来て下さい!」この言葉には、何の説得力もありません。
安全・安心の実現は大きな課題といえます。

本来であれば、地域による相当な自助、共助の意識を前提としながらも、行政の観光に対する施策や地域防災計画の中に大きく謳われるべき事だと思います。が、そのどちらも見えてきません。

「あの震災を踏まえたか?」との問いには今は未だ苦しい回答しかできぬ状況ではないかと思います。

震災を乗り越えたつもりになってませんでしょうか。

それはまったくの誤解です。

「被災地」だから、地域としてやる事はまだまだ沢山あると、私は思います。
しかも、目の前にあるのはいくつもの大きな難題です。

みんなで考えてひとつひとつ実現・解決していきたいですね。

…というか、やらねばならぬ事だと思います。

2013年3月11日月曜日

震災から2年。忘れん。忘れられん。

2012年3月、岡田西町仮設住宅にて。

東日本大震災から2年。


あのとき、どうしていたのか。
どんな事を考えたのか。
どんな事を思ったのか。

思い出してみる。


以下、mixiに2011年3月19日に書いた日記。
(※一部修正し、一部割愛します。)

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3月11日。 

仙台へ向かっていました。 

仙台の足立千佳子さんと夜に打合せながら飲む予定を立てていたので。 
私の行動パターンをご存知の方ならお分かりいただけると思いますが、仙台へ行ったときは大概、海に行っています。松島やら、若林の荒浜をブラブラやら。 
あの日は風邪をひいており、用事もあってお昼過ぎの「遅い日光発」になりました。 
きっと何もなく午前中に出発していたら、どちらかの海にいたと思います。 

車に乗り出し、東北道へ。 
白河を過ぎ、矢吹あたりで 
「・・・あれ?なんだよ、だいぶ風が強いな」 
という車の横揺れが来ました。 
この時点では車のスピードを少し緩める程度。 
しかし、そのうちに揺れが激しくなり、標識等が大きくしなり、地震であることを認識しました。 
周りの車もハザードランプを点けて停車。 
これまでに経験の無い、左右への大きな揺れ。 
一度収まりましたが、今度は車がバウンドするというような、これも味わった事がない揺れが来ました。 
見ると道路には大きな亀裂が入り、中には隆起しているところもありました。 



3月11日、東北自動車道にて。15時頃撮影。


東北自動車道の亀裂。

揺れが収まるのを待って鏡石のSAまで。 
SAの建物は沈下し、水道管も破裂していました。激しい余震は続きました。 
当然携帯は繋がらず、公衆電話で実家に一言無事であると連絡をして、日光へ戻る事を考え始めました。 
それまでは、これはいったい現実なのか疑うような、何か頭がボーっとしている状態でもありました。 
この時点でtwitterでの反応も「何が起きたの?」「大きい地震!」というところでしたが、徐々にその甚大さがわかってきました。 
(何より、知り合いやフォロワーさんと繋がっていられたのが、一人で車を運転してる者にとっては大きな支えでした) 



余震が続く中、鏡石サービスエリアで撮影。

サービスエリアのコンビニ内の様子。


須賀川インターで下り、4号線で矢板を目指しました。 
4号の渋滞は激しく、道路状態も所々で割れや陥没、隆起が見られました。 
途中寄ったコンビニでは、既に買占めが始まっており、水やおにぎり、サンドイッチは完売。公衆電話にも列ができていました。 




おにぎり等は完売、代わりにカップラーメンが並んでいました。



渋滞の車の中で見るカーナビのワンセグとツイッターの情報が頼りでした。(よくぞ落ちなかったツイッター!) 
大きな津波があった事や、これまでに無い規模の地震である事。茨城でも起きた事が徐々にわかり、急に日光が心配になりました。 
ドコモは全く繋がらず。。。 
早く家に帰りたい気持ちでいっぱいの中、車は動きません。 
次第に暗くなりましたが、街に灯りは点りませんでした。 

暗い国道4号をなんとか矢板まで。 
そこから塩谷に入った時に、家々の灯りが見えました。配電区、電気系統の違いでしょうか?
結局、家に着くまで5時間くいらいかかったと思います。 

日光の被害は少なかったものの、次の日からは友人知人の安否や地元の事で頭がいっぱいになりました。 
何より連日報道されていた津波の被害や原発の状況を張り付いて見ずにはいられませんでしたし、twitterで流れる情報を絶えずチェックしていました。 

身体の揺れる感覚が染み付いた?ようになり、夜になるとネガティブの沼にはまっていました。 
自分は生きているということと、こんなにも死者・不明者がいるという現実。 
その線はいったいどこにあったのか。 
都市やってる者、NPOやってる者として、そのまま仙台へ行くべきだったんじゃないかとも考えました。 

大好きな東北。

自分を育ててくれた東北。

かなり泣きました。 

しかし、余震も続く中、少しずつ身の回りも落ち着いてきて考え出すのは、自分の身の回りの安全の確保と、被害に対して自分に何ができるのかということ。 
被災しなかった、被災地にいない、という得体の知れない罪悪感に苛まれます。これは未だに波があります。 

一方で、被災地以外は、なるべく「普通の」都市機能、「普通の」経済活動が求められています。 
ガソリンや買占めは言わずもがなですが、輪番停電の中にあってもなるべく普通に近い生活を目指すのが我々と思います。 

Twitterにも過剰に「不謹慎」と反応する波がありましたが、これは、時期によっては物事を停滞させます。 
しっかりと、前を向かねばなりません。 

さて、しかし日光にあっては観光の打撃は明白です。 
全く客足はありません。 
個々への打撃、街としての打撃はそれぞれ時間差でジワジワと効いてくるでしょう。 
「観光なんて」となかなか理解されない部分。 
これは日光にとっても未曾有の難局だと思います。 
さて、どうしたものか。 

自分はというと、近しい人達と支援の方法を組み立てています。
長く支援できるシステムを。 
日光に避難してきた方々への支援というのもあります。(2000人予定だそうです) 
同じように、まちづくり屋としても、この先長く東北のお手伝いができればと考えています。

もう、結局はそれぞれの立場で考えられることをやればいいのだと思います。 
自分に出来ることは無いと言うのは違います。 

以下、いくつかtwitterから転載します。 

●歌手の松山千春氏がラジオで,今回の地震に関して「知恵がある奴は知恵を出そう.力がある奴は力をだそう.金がある奴は金を出そう.『自分は何にも出せないよ・・』っていう奴は元気出せ.」言ってた.シンプルだけど,確かにそうだよな,と強く納得. 

●健康、安全、平和。この3つは、個人、社会、世界で、みんなで協力して絶対につくっていかねばならない。このことが、今の自分の気持ちが素直に最も強く訴えていること。仙台で孤立しているうちの母さんを、社会に助けてほしい。うちの母さんにも、人を助ける役割を与えてほしい。みんなで、みんなで。 

●被災者の役に立ちたいと考えている優しい若者たちへ~僕の浅はかな経験談~ - chodo's posterous  http://htn.to/FanA7U 

以上とりとめのない日記。希望と共に。 
がんばりましょう!!! 
*お見舞いはNPOのブログに記しました。 


岡井 健 


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2011年3月11日に自分がTwitterでつぶやいていた内容がツイログで見れる。

http://twilog.org/niemon_k/date-110311


あれから2年。

縁をいただいて、今では仙台沿岸部の復興まちづくりのお手伝いをさせていただいている。

復興まちづくり、待ったなし。
慌ただしい毎日の中ではあるのだけど、時々「させていただいている」という気持ちになる。

この3月11日に向けて色々整理をし、書きたいと思っていた事もあるのだけど、間に合わず。
いや、もともと整理などできぬ事なのだと思うのだけど。


さて、静かに過去を思い、明日へ。




現在(いま)がどんなにやるせなくても 明日は今日より素晴らしい」(桑田佳祐「月光の聖者達(ミスター・ムーンライト) 」より)