学生時分に、某社の採用試験で問われた「宿題」に対して書いたものが出てきた。
今から11年前の2000年の夏、22歳の頃。当時の渾身の文章。
ネットやモバイルも、その当時を思い出しながら恥ずかしく読み返し…。
今となると疑問な点も多々あるのだが、当時のまま晒してみる。
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これからの都市計画・まちづくりについて
この数年の間、画一的な都市計画から抜け出そうという考えが、一般化しつつある。しかし、それらはなかなかうまくいっていないのが現状のように思う。
この100年は、技術的な面で大きく発展した世紀だった。今では、都市計画にしても「おおよそ」の基盤はできあがってしまっている。多分、技術というものは「画一的」で「表情のないもの」であるし、その技術がまた表情のないものを大量に生み出す。この繰り返しをしてきたのではないかと思う。
人が利便性や快適性、機能性を求めるとそうなるのは必然的だ。もちろん技術的な躍進は必要だが、あまりにもそれを追い求めると他の事を忘れてしまう。おそらく、そうしたものへ疑問を投げかける者もあったが、それらはただの「保守的な考え方」や「ノスタルジア」などとしかとらえられず、人は進化し続けて来たのではないか。
こうした向こう見ずの進化は、ここ最近バーチャルの世界にも都市を創り出すまでになった。
高速で情報がやり取りされ、もはやその情報量は一人の人間が消化できる量を超えている。大量の情報を「摂取」できても、それをそれぞれの胃袋で「消化」できないのだ。今は、大量の情報を高速でジャッジできる能力が求められている。
モータリゼーションもそうだ。確かに車を使うのに困難な中心市街地へ出かけるより、郊外の大きな駐車スペースのある百貨店へ行き一週間分のまとめ買いをし、車に積んで帰った方が能率がよい。
簡単に言ってしまうと、「自分の家」と「自動車」そして「モバイル」があればよい時代がそこまで来ている。
それは多分「都市は必要ない」ことであり「都市は必要か?」という疑問が「今」投げかけられているのではないかと思う。
だが、多くの人はこのことに気づいていない。一部の専門とする者や興味のある者だけがこのことに気づき、頭を悩ます状態である。エコロジカルな問題は近年大きく取り上げられているが、考えるべきことは他にもたくさんある。
そして、これからの「まちづくり」は行政やプランナーだけのものではない。
住民が主体となって「まちづくり」をしていくべきである。(だいぶそれを行っている都市もあるようだが)
その際、「その土地の魅力とはなにか?」を見つけるべきである。我々が都市を考える時、どうしても「ここがいけない」とか「ここをどうにかしたい」といった方に目がいきがちだし、実際にそこに住んでいるとなかなか気付かないいことが多い。
都市には都市の魅力があるだろうし、農村には原風景的なものが多く残っている。都市でも農村でも「持続」する事が求められている。都市では早い循環にについていける住まい方、農村では時代に捕らわれることなく住み続ける「意識」が必要とされているように思う。また、それぞれの地域にはそれぞれの歴史、気候、風土、地形、風景がある。画一的な都市づくりをしてきた今日、特に歴史や地形、風景を研究することが重要である。
そして、政治・行政、専門家・プランナー、住民への教育・啓蒙などあらゆる点から都市を考えないと、これからの「まちづくり」は困難である。
人々がそれぞれ、自身の身のまわりを少しずつ考え、その住む土地を好きになり、元気になるように活動する。助け合う。我々はそのサポートをする。それぞれのコミュニケーションが生まれる。
「リアルな都市」の魅力は、その辺にあるのではないかと思う。
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さて、いよいよ恥ずかしい。
ぼんやりしすぎているのは数値的根拠の無さからか。
まあ、論文の類いではなく熱意である。
頑張って打ち立てようとしている努力だけは認めてあげよう。笑
化粧屋仁右衛門、大学生。若け〜。 |