2014年から1年3ヶ月かけて下野新聞に連載された「聖地日光」は、三部構成のロングシリーズだった。この連載は後に本になるだろうな、と思いながら読んでいた。
(まだ情報が出る前に或る記者さんに聞いたら、そうです、との回答だった。)
ずばり、「一気読みできる日光史」だと思う。
読みやすい文体と、複雑なストーリーを完結に繋いでいることで、すっと頭に入ってくるよう。この辺は新聞社編の刊行物ならではだと思う。
また、日光開山の歴史から昭和までが時間軸に沿って網羅されている。(一部順序は入れ替わっているものの)
連載記事では、現在に影を落とす課題なども書かれていたが、書籍化にあたって割愛されたようだ。
東照宮の高藤氏は著書で「徳川家康には判官贔屓的なものの反動がつきまとう」という主旨の事を述べている。それがそっくり東照宮や日光に当てはまるという印象を私も持っている。
つまり、成し遂げたり歴史を打ち立てたりした側よりも、それが叶わなかった側に無条件に同情するような、人間感情を寄せやすいという、謂わば法則的なものである。
したがって、この辺が日光に誤解や偏見をもたらしている大きな理由であると思うのだ。
日光は分かり易い。
そう思っている人は、膨大な情報両と夥しい経験値を得て今のまちが有る、つまり、日光の複雑さに是非触れていただいきたい。
逆に日光は複雑過ぎる。難解。
そう思って、もしも日光をより深く知ってみることを遠ざけている人には、歴史のターニングポイントになった部分や、キーマンなどを押さえつつ、更に何故?を追求していくと、どんどんと面白くなってくることに、是非気付いて頂きたい。
難しい事では無いし、別に恥ずかしい事でもない。と、思うのだ。
かく言う私も、こんな風に偉そうに語りつつ、まち歩きのガイドの為に少しづつ学んでいる最中なのである。
日光、ひいては栃木の言葉で「わられっちゃう」と言うと「笑われてしまう」という事を指す。
どうも、この「わられっちゃう」が様々なクリエイティビティやアクティビティを阻害しているように私は感じている。だいたいからして、揶揄や嘲笑することなんて、誰にでもできるのだ。
わられて何が悪い?
そう思うのである。
知らないことは恥ずかしいことでは無い。
ただし、知らないのを放置したままは、ちょっと恥ずかしいかもしれない。
この本が「日光を知る」入口になることを願う。是非、扉を開けてみていただきたい。
そして、是非日光門前のまち歩き「日光ぶらり」にもご参加いただきたい。
…さて、ステマで終わるわけにはいかない。
本テキストで何を伝えたいか。
日光に触れる事は、日本を学ぶ事に他ならない。
大袈裟にいうのならば。
…いや、決して大袈裟でもない。
日光の転換点は、日本の転換点にそっくりそのまま当たる。
まさに
Nikko is Nippon
なのである。
是非、本書を手に取り、日光へ訪れてたっぷりと歩いて頂きたい。
今の時期は緑分を多分に含んだ空気が、本当に美味しいのだ。
今の時期は緑分を多分に含んだ空気が、本当に美味しいのだ。
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