日光門前地区の人口を調べている。
「日光門前地区」を、日光弥生祭の家体(やたい)献備町内に若杉町、相生町、宝殿、萩垣面、山内を加えた範囲としており、所謂、本来の日光の中心部の範囲を指すものとした。
国勢調査の統計を元に、平成7年(1995年/今から21年前)と、平成22年(2010年/今から6年前)のものを比較してみている。
昨年実施された最新の国勢調査の数値の詳細(町丁目別等)はまだ発表されていない。
(最新情報が発表され次第更新したいと思う。)
さて、この通りである。
まず対象地域全体から見ていくと、
6,304人から4,725人に減っており、15年間で0.75(75%)まで落ち込んだ、という事になる。
この同じ時期に、日本全体の人口は1.019倍になっている。
宇都宮の人口は、1.072倍だ。
都市部は微増し、しかし、今では下り坂に向う。
近隣で合併(所謂平成の大合併)をしていない矢板市の同時期は0.96倍である。
特に人口5万人を切るくらいの地方小都市は、軒並み早いうちから人口減に転じている。
日光も他の地方小都市のように、早いうちから人口減少に転じている、といえる。
もちろん、今回の日光門前の人口については、合併前の日光市域をカバーするものではないが、現日光地区全体の減少歩合はこれとほぼ同じと見て良いと思う。
昨今、超高齢化についてはメディアでも頻繁にとり上げられるが、この人口減と照らし合わせて、今後10年、20年、30年を再びイメージして欲しい。
いくら「国際観光都市」を名乗りつつも、このままでは少ない「まち」の担い手に、負担だけが押し寄せる事になる事は、想像に易い。
この状況に真っ向から抗い、人口を増やしていく。というのも、もはや唐突な発想としか言えないほど、これからは価値観と暮らしがねじれていく事だろう。
シュリンクしていく中で、どう維持していくか。
維持していく事でさえ、かなりの労力を必要とするような事態になっている。
何に積極的になるべきかは、自ずと見えて来る。
次に、東西の町内毎の人口をみていきたい。
「町内」という身近な単位で数字を並べてみると、門前地区全体の縮小度合いもうなずけるのではなかろうか。
・ほぼ右肩下がりのグラフが並ぶ中、数カ所増加している箇所がある。
・それは、東和町、若杉町、宝殿などの東町の東側に見られ、特に若杉町の増加は顕著である。これは市営住宅の建設に伴うものと思われる。
・山内の減少率は少なく、この中でも比較的人口が安定している。ざっくりと、こんな事が言えるのではないかと思う。
弥生祭で考えてみると、西町の「大工町」「板挽町」は匠町にあたり、この人口を単純に二等分したとしても100人を上回るくらいの人口となる。
人口100人〜150人で家体巡行を担わなければならない町内は、前述の大工町、板挽町。
また、100人を切っているのは上鉢石町と、現在休年中の中鉢石町、グラフ中の「本町」の人口を分け合うことになる中本町、下本町、袋町(いずれも休年中)もそれぞれ100人を切っているのではないかと思われる。
ここからは勝手な推論になるが、上記のことから、《町内人口=100人》を家体が献備できる一つのバロメーターとなるのではないかと考える。
もちろん、各町内の人脈や様々な工夫、努力により維持している事、この限りではないことも承知の上でこのように書いている。
閑話休題。
祭りもそうだが、普段のまちも担い手が居なければはじまらない。
当然のこと。
ましてや年間1,000万人から訪れる観光客(交流人口)の担い手がどうか、受け止められるかどうか、という深く大きな課題としても我々の前にのさばっている。
自らの商いだけでは、「まち」にはならず、いずれそれは自らに跳ね返ってくる。
という事である。
まちづくりは、まわり道の発想が肝要。
直利、目先の損得だけでは、いずれ立ち行かなくなるだろう。
今日のそろばんを弾こう。
明日のそろばんも弾こう。
でも、近い未来の算段と、将来のまちの姿も思い浮かべてみることも忘れずに。
だから、ちょっとでも余白を作り出し、まちづくりをしよう!
といったところだろうか。
長くなったが、最後に国立社会保障・人口問題研究所のホームページから上のGIFを拝借する。
1920年から現在までの推移と、今後2060年までの人口予測がグラフの動きでわかるもの。
三角からやや釣り鐘型、壷型と変化し、やがて全体が痩せ細っていく。
どういうことなのか、よく考えたい。
国立社会保障・人口問題研究所のホームページ
今夜もSo What …ではない。
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