廣瀬俊介先生の「風景資本論」を拝読。
僭越承知で読みながら考えた事などを記しておきたい。
まず、第一章の見出しの「風景に投資する」という言葉でハッとした。
この概念、価値観は日本において圧倒的ウィークであると、日頃実感している。私の活動拠点である日光については課題が多い。これは、これまで失った物の多さと比例しているように思うが、同時にそれだけやり甲斐が有るというものだと言い聞かせ取り組みたい。
これからは物質的なものに加え「関係性」や「感覚」にもっと投資のシフトが起こることだろうと思う。その価値はむしろ物質を否定せずも、それを超えるのだと思う。
置き去りにされてきた価値観は、今や多様化した価値観の中にあっても、見直されるべき「公」なのだと思う。
思えば「震災で失った風景」というワードはマスコミ等でも多数出ていた。
「失ってわかる」という表現よりも「無意識のうちの日常の共有」であり、その重要性であり、それが風景なのだと考える。
重要なのは、何故風景が人間にとっての資本であるかの証明が「自然に身を置く」ことから「都市化と拡大」への流れの中でなされている事。
また、本書では飛騨古川やストラスブールなどの実状が、写真やスケッチと共に綴られている。中でもたくさんの写真で紹介されている飛騨古川の美しい風景は、実際に訪れてみたいと思う。
読後、地形の文脈、都市や集落の文脈、という言葉が頭に浮かんだ。
「生活景」を含め、価値観のシフトを期待し、また、自分にできる事は積極的に仕掛けていきたい。
都市化、科学時術。人間がどこまで拓いていくべきなのかを考えさせられる、自分にとって大切な一冊に出会えた。
岡井さん、廣瀬です。
返信削除フェイスブックへの投稿からこの記事を知り、本日拝読をいたしました。
拙著をお読みくださり、有り難うございます。
「投資」の基本は、日光のように野生の自然、準自然、歴史的建造物群を保有するところでは、施設の新設のようないわゆる開発ではなく、上記の現有「資本」の再評価と管理に向けて先ず行うことかと思います。
そして、再評価と管理の方針を立てるにも、今日わが国で一般化しているような、任意の開発を主とした観光地計画から離れた、地域的かつ総合的な計画が要るのではないでしょうか。
本書第二章を、飛騨古川の風土と暮らし手の思いや気質に照らし合わせて書いたものが、第三章です。
それでは、日光の風土や岡井さんをはじめとする皆さんの願いに照らし合わせると、どのような風景資本の内容構成が確かめられ、地域的可能性の改めての評価が行えるでしょうか?
著者としては、本書をそのように用いていただけるならば本望です。
ご不明の点などありましたらお問い合わせください。