買って少し置いておいたこの記録DVDを、やっと手に取って再生した。
あの日が蘇り、これまでを振り返りたくなった。
4月に日光市民活動支援センターさんの物資を届けに、石巻の幼稚園に行った。
5月の連休には先生のお伴で岩手の千厩〜陸前高田〜気仙沼〜石巻〜松島〜仙台と廻り、この時には「NPO法人陸前高田創生ふるさと会議」の発足会をオブサーブさせていただいた。
また、気仙沼の中心部を大学の時にお世話になった先生に案内いただいた。
その後、仙台には月一ペースで訪れている。
夏には日光ボラセンのお手伝いで福島の新地(当初は相馬予定だが当日変更になった)で泥かきをした。
10月には、やはり先生のお伴で千厩〜陸前高田〜大船渡〜釜石〜宮古〜山田〜田老という風に各地域を訪れた。
この時には、陸前高田の今泉地区での集会所設置の現場にお邪魔した。林業が盛んな隣町、住田町からの間伐材を利用した誰もが設営に参加できる集会所である。(これはまた別のエントリで書きたい)
それぞれ訪れた沿岸の被害が甚大な事は言うに及ばない。
だが、実は私個人として一番見たくない風景は、自分の住んでいた仙台市宮城野区の陸前高砂周辺や若林区の岡田や荒浜あたりだった。多賀城もそう。
かつて自分の生活の中にあった風景が、人々の生活が傷んでいるのを見たくは無かったのだ。
したがって、4月に石巻に向かう途中、多賀城のR45号沿いの津波被害状況は本当に衝撃だった。
これまで、書いたり写真を整理したするのさえ、心のどこかでずっと躊躇ってきたのだと思う。
しかし、忘れない為にも整理しながら撮った写真を選んでアップしようと思う。
今はグーグルのストリートビューでも道沿いにその様子を知る事ができる。
ここでは、私なりに撮った風景を選んで些細なキャプションを。
ご覧になった方の、「忘れない」為のほんのほんの一助となればと思う。
陸前高田(5月)
5月に訪れた陸前高田。街なかには流失した高田松原の松が積まれていた。 |
キャピトル1000の屋上より。45号線(北方面)を臨む。 |
キャピトル1000のロビー部分。 |
同建物の柱。躯体として耐えているものの、仕上げは軒並み剥がれている。 津波の威力が伺える。 |
看板の盤面下部が損壊している。津波の高さが伺える。 |
広田半島の広田漁港にて。 |
陸前高田(10月)
陸前高田の今泉地区にて。 |
気仙公民館の2階にて。気になってレコードのレーベルを見たら ストーンズの「SOME GIRLS」だった。私も好きな一枚。 このレコードの辿った運命と、所有者の無事を考え祈った。 |
広田漁港にて。 |
気仙沼(5月)
魚市場の屋上にて。湾の入り口方面を臨む。 |
同箇所。「がんばっぺ気仙沼」の鯉のぼりが。 |
倒壊した気仙沼の地酒「男山」の社屋。 |
街なかの様子。 |
街角。ちょっとの高低差で被害状況が全く異なる。 |
上に同じ。この頃は未だ瓦礫の撤去作業は半ばだった。 |
大船渡(10月)
下船戸駅付近の港。岸壁より手前にも海水が流れ込んでおり、地盤沈下と思われる。 |
大船渡の街なかへ向かうR45号。 |
大槌町の役場前の鉄骨造の建物。 |
奥の建物が大槌町の役場。 |
大槌小学校。津波の被害に加え火災が発生した。 |
田老(10月)
防潮堤にて。一部破損している箇所もあり、想像を超える津波の威力が伺える。 |
昭和8年の津波の際の慰霊塔。高台の墓地にある。 |
仙台(5月)
若林区荒浜付近のお堂「狐塚祠」かつて仙台に暮らした時にこの脇の道路を通る度に 「田んぼにあるこういう風景はいいなぁ」と思っていたのである。 沿岸にあって奇跡的に残っている。 画面奥の防砂林が歯抜けになっている状況は本当に胸が痛かった。 |
上記の場所をgoogleの航空写真で。真ん中の緑の点がお堂である。 その周りの田畑は津波の泥をかぶり茶色くなっている。 |
もちろん、もっと沢山写真におさめているのだけど、今回はこのへんで。
東北を訪れるたびに、お付き合いさせていただいいる方々とは、無事を確かめたり、情報をいただいたり交換したり、飲んだりしている。
私は、10代最後から20代前半を東北で過ごした。第二の故郷である。
恩返しの為にも、これからも、もっと東北復興の一助となれればと思っている。
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