2014年1月11日土曜日

承認欲求

日光での話し。

市の主催する「賀詞交歓会」というものにここ3年程(招待をいただき)出席している。
今年も先日開催されたのだが、この席上の挨拶で某議員から以下のような主旨の言葉があった。


「合併した広大な日光市で、まだまだ(合併以前の)地域間の交流や理解が足りないと思っている。市でも様々な事が起きており、課題もあるが、『自分は使わない施設整備だから知らない』とか『遠く、どうせ行かない場所だから知らない』という事でなく、同じ日光市なのでもっと自分の地域以外にも目を向けて欲しい。」


前段の「交流、理解の不足」の指摘については、賛成だ。
ひとつとして扱う事と、地域の特性や、コミュニティの単位として扱うこと、つまり、無理に「ひとつ」と言わない事の両面を心がけるべきは当然。
しかし、これができていない。
交流・理解は決して大きな予算や労力を必要とする事ではないはず。やり方次第だ。大切な事が足下に転がったままになっている。そういうように私には見える。

さて、問題は後半の部分。
これは興味の問題、市民意識の問題と言える。
施設整備となると、中心市街地活性化にまつわるアレの事が想起され、この挨拶の場でも8割方それがわかるような言い回しだった。(笑いというかほぼ苦笑がおきていた)

よって、中活のアレを想定して考えてみよう。

前述の「意識を嘆く」一方で、説明責任、事業の進め方はどうだろうか。
あまりにも性急で、意図や効果を明確にできていない事業や、その地域の当事者の熱意や検討の積み重ねの見えぬようなものに、誰が理解を示すのだろうか。

現状では、単なる承認欲求の一人歩きに他ならない。

だから、今回の件は、議員の言葉としては苦しいと思う。
では、どのように意識づけをしていくのか。それは誰の仕事か。
市民の所為にするのは簡単であろう。

・プロセスが見える場、ディスカッションの場の欠落
・地元主導でない事業(少なくともまわりにはそう映ってしまっていること)
この二点が大きな原因だと思う。

事業まかせ、施設まかせ、行政まかせで活性化するなんでイメージはとっとと捨てるべき。
「まちづくり」はそんなイージーな事ではない。


課題は各地域に落ちている。


今回の事は良い例だと思う。
「自分のまち」を考えるきっかけとして。

それにしても、高い買い物(というか、誂え?)だとは思うが。


今夜もSo Whatだな。


2014年1月7日火曜日

なんか、見えてきた。



ちょっとした対話でも見えて来る事がある。

本を読むと、普段の「自分なりの気付き」や「うまく言葉にできないモヤモヤ」が見つかり、ハッとする事が多い。
(もちろん「本当にそうかな?」なんて斜めに見ながら読んでいる事もあるけども。)

経験を踏まえた「ひと言に込める」迫力と、重み。
その言葉の使いどころもまた重要なのだ。

先達の知恵。受け継ぎ、次世代にどうバトンタッチするか。
大変な作業だと、改めて思う。

表層ではなく、一度は深く潜る必要があるわけだ。



今年も駆け抜けよう。

あ、初心がどこにあったのかを忘れずに。確認しながら。 


そんなわけで、今年もSo Whatで。


そう「だから、なに?」で。